1:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 13:05:53.27 ID:uxwqRYpB0
「自分の人生には、何円くらいの価値があるか?」 
そんな質問をされたことがあったな。 
確か、小学四年生の道徳の授業だったか。 

大半の生徒は、きょろきょろ周りを見ながら、 
最終的には、数千万から数億という結論を出してさ。 
「お金では買えない」って考えを譲らない生徒もいたね。 

大人に聞いても、似たような答えが返ってくるだろうな。 
少なくとも俺は、実際に寿命を売るその日までは、 
自分の人生は二、三億くらいの価値があると思ってた。 

だから十年か二十年くらい寿命を売って数千万得て、 
残りの人生を楽に生きるのが利口だと考えてたんだよ。 
幸せな六十年とそうでもない八十年だったら、 
前者の方が絶対いいに決まってるからな。 

査定結果を見た時はひっくり返りそうになったぜ。 
どうやら俺の一生、百万円にも満たないらしいんだよ。 
4:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 13:10:15.53 ID:uxwqRYpB0
二十歳の七月くらいの時の話なんだが、 
その頃、俺はとにかく金に困ってた。 

白米とみそ汁以外のものを口にしてなくてさ、 
数日前、ウェイターのバイト中に三回ぶっ倒れて、 
そろそろ栄養のあるものを食べないとまずいと思った。 

金になるものといったら、家具、数十枚のCD、 
それに数百冊の蔵書の他には考えられなかったな。 

ほとんど中古品で、たいした価値はないんだが、 
それでも一か月の食費くらいにはなるかと思って、 
できるだけ新品に近付けようと入念に掃除して、 
行きつけの古書店や楽器屋に売りに行ったわけだ。 



7:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 13:12:22.45 ID:uxwqRYpB0
古書店の爺さんは、俺が本を大量に売りにきたのを見て、 
「一体何があったんだ?」って心配してくれた。 
普段はそっけない爺さんだったから、意外だったな。 

「紙はおいしくありませんからね」って俺が遠回しに答えると、 
爺さんは心底同情したような目で俺を見つめた。 
でも金はくれなかったな。向こうも貧乏だから仕方ないけど。 

はした金を受け取って店を出ようとすると、 
爺さんは「なあ、ひとつ話がある」と俺を引きとめた。 
金くれんのかなーと思って「はい?」と戻ると、 
言われたんだよ、「寿命、売る気ねえか?」って。 



8:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 13:14:42.85 ID:uxwqRYpB0
老いの恐怖でついにボケちまったかと思いつつ、 
俺は話半分に爺さんの説明を聞くことにした。 

つまりは、こういうことらしい。 
ここからそう離れていないとこにあるビルに、 
寿命の買い取りを行っている店が入ってるらしい。 
そこでは時間や健康さえも売れるんだが、 
寿命は特に高値で取引されてるんだそうだ。 

爺さんは震える手で地図と電話番号まで書いてくれたが、 
俺でなくたって、そんな話、爺さんの願望が作り上げた 
空想に過ぎないって思ってしまうだろう。 
ちょっとかわいそうに思ったね。死ぬの怖えんだろうな、って。 



11:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 13:19:27.22 ID:uxwqRYpB0
だが結局、俺はそのビルに向かうことになった。 
CDも本も家具も、まったく金にならなかったからだ。 

寿命を売るなんて話を信じたわけじゃない。 
しかし、俺はこういう可能性を考えたんだよ。 
爺さんや兄ちゃんが言っていたことは何かの比喩で、 
実はものすごく割のいいバイトがあるんじゃないかって。 

寿命を縮めるようなリスクを負う代わりに、 
一か月で百万くらい稼げたりするとか、そういうの。 

ところが、うす暗い階段を上がってドアを開け、 
目が合った店員らしき女が、俺の顔を見るなり 
「時間ですか? 健康ですか? 寿命ですか?」 
なんて言ってくるもんだから、笑っちゃうよな。 



12:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 13:22:41.12 ID:uxwqRYpB0
一連の出来事で神経がまいっていたのか、 
俺はもう考えるのが面倒になって、「寿命」と答えた。 

「二時間ほどお時間をいただきます」と女は言い、 
すでに両手はPCのキーボードをかたかた叩いていた。 

おいおい、人の価値って二時間程度で分かっちゃうのかよ? 
俺はあらためて店内を見回した。 
なんていうんだろうな、眼鏡のない眼鏡屋、 
宝石のない宝石店みたいな空間とでもいうか。 

でも俺の目に見えないだけで、本当はそこら中に 
寿命とか健康とか時間が飾ってあるのかもしれない。 
なんてな。いつまでこの笑えない冗談は続くんだ? 



13:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 13:26:50.95 ID:uxwqRYpB0
駅前の広場に行って、煙草に火を点け、 
最後の一本を時間をかけて味わった。 
煙草もそろそろやめなきゃな、と思う。 
金食い虫だし、健康にもよくねえからな。 

近くで鳩に餌をやっている老人がいたんだが、 
それで食欲が湧いてしまう自分が情けなかったな。 
もうちょっとで鳩と一緒に地面をつっつくとこだったぞ。 

寿命、高く売れるといいなあ、と思った。 

駅で時間を潰した後、俺は少し早めに店に戻り、 
ソファでうたた寝しながら査定結果が出るのを待った。 
二十分ほどして、俺の名前が呼ばれた。 
妙だよな。俺、一度も名乗った覚えはないんだよ。 



15:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 13:28:43.88 ID:uxwqRYpB0
査定結果を見て、俺は変な声をあげちまった。 

一年につき一万円? 余命三十年? 

ブックオフだってもう少しまともな値段をつけるぞ。 
カメか何かの結果と取り違えたんじゃないのか? 
でも、そこには確かに俺の名前が書いてある。 

「これ、何を基準に決められてるんですか?」 
俺はそう言いつつ査定表を女店員に見せた。 

「色々です」と彼女は面倒そうに答えた。 
「幸福度とか、実現度とか、貢献度とか、色々」 
多分、こういう質問に飽き飽きしているんだろうな。 



16:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 13:36:01.19 ID:uxwqRYpB0
女店員はシステムの詳細を教えてくれた。 
本当は教えちゃいけないらしいんだが、 
あんまりにも俺がしつこかったんだろうな。 

特にショッキングだった情報は、一万円というのが、 
寿命一年あたりの最低買取価格だったってこと。 

ようするに、俺の人生は限りなく無価値に近いってことだ。 
幸せになれず、また誰一人幸せにできず、 
何一つ達成できず、何一つ得られないらしい。 

「問題がなければ、こちらにサインをお願いします」 
女店員がしびれを切らしたように言うが、 
これを見て問題がないって言うやつがいたら、 
そいつは脳の病院に行った方がいいと思うぜ。 

だがその頃には俺の感覚は麻痺しちまっててさ、 
自分の物や時間を安売りするのに慣れ過ぎてた。 
で、ヤケになって、こう答えちまったんだ。 
「三か月だけ残して、あとは全部売ります」 



18:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 13:39:05.34 ID:uxwqRYpB0
三十万入った封筒を持って、俺は店を出た。 

引きつった感じの笑いがこみあげてきたな。 
何が悲しいって、俺の寿命の安さの理由、 
俺自身、なんとなく分かる気がするんだよ。 

だがそれについては考えたくなかったから、 
帰り道に酒屋によって大量にビールを買いこんで、 
俺はそれを飲みながら夜道をゆっくり歩いた。 

酒なんて飲むのは本当に久しぶりだったね。 
だからすっかりアルコール耐性もなくなってて、 
俺は帰宅して二時間後には吐いてた。 

余命三か月、最低のスタートを切ったわけだ。 



22:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 13:49:53.07 ID:uxwqRYpB0
眠りにつけたのは朝四時くらいだったなんだが、 
こういう日に限って、幸せな夢を見ちまうんだよな。 
小学生の頃の夢だった。なんでもない夏休みの夢。 
親の車で、幼馴染とキャンプにいった時の夢。 

ああ、泣いたね。寝ながら泣いてたね。 
無慈悲に幸福な夢から俺を救出したのは、呼び鈴の音だった。 
無視し続けてると、俺の名を呼ぶ声がした。 

ドアを開けると、見慣れない女が立っていた。 
なんか条件反射的に喜んじまったけど、 
その目つきを見て、俺は思い出した。 

そいつは俺の寿命の査定をした女だったんだ。 
「今日から監視員を務めさせていただくミヤギです」 
そう言うと、ミヤギと名乗る女は俺に軽く会釈した。 

監視員。そういえば、そんな話もあったっけ。 
二日酔いの頭で昨日の記憶を探りつつ、 
俺はトイレに駆け込んでもう一回吐いた。 



23:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 13:55:02.70 ID:uxwqRYpB0
げっそりした気分でトイレから出ると、 
監視員がドアの正面に立っていた。 
最前席で聞きたかったのかな、俺の吐く音。 

うがいをして水をコップ三杯飲みほすと、 
俺は再びベッドに戻って横になった。 

「昨日も説明しましたけど」と横でミヤギが言う、 
「あなたの余命は一年を切りましたので、 
今日からは常時、監視がつくことになります」 

「その話、後じゃ駄目か?」と俺はミヤギをにらんだ。 
ミヤギは「わかりました。じゃあ、後で」と言うと、 
部屋のすみっこに行って、三角座りをした。 

以後、ミヤギはそこから俺を定点観測し続けることになる。 
似たような経験のある人には分かると思うが、 
これをやられると生活のペースはすっかり狂う。 
ほら、人に見られてるとできないことって沢山あるだろ? 



24:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 13:59:29.66 ID:uxwqRYpB0
寿命が一年を切った客には監視員が付くってのは、 
確かにあらかじめ聞いていた話ではあったんだ。 

ミヤギの説明によると、寿命が半年を切った客が、 
ヤケになって問題を起こすことがあまりに多いから、 
それを未然に防ぐために監視員が導入されたそうだ。 

もし俺が他人に多大な迷惑をかけそうになったら、 
監視員が本部に連絡して、俺の寿命を尽きさせるらしい。 
トラヴィス・ビックルにはなれないってこった。 

ただ、最後の三日間だけは、監視員も外れて、 
純粋な自分の時間を満喫できるそうだ。 
統計的に、そこまでくると人は悪さをしなくなるとか。 



27:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 14:02:44.12 ID:uxwqRYpB0
夕方には、吐き気も頭痛も消えていた。 
俺はようやく物をまともに考えられるようになってきた。 

昨日、衝動的に寿命の大半を売ったことについては、 
自分でも意外なほど後悔していなかったな。 
むしろ、三か月も残さなきゃよかった、とさえ思った。 
監視されっ放しの三か月なんてごめんだからな。 
三日くらいしかいらなかったんじゃないのか? 

さて。自分の価値の低さを今さら悩んでも仕方ない。 
問題は、これから何をするかだろう。三か月で。 

俺はルーズリーフを一枚取り出し、ペンを手に取り、 
そこに「やりたいことリスト」を作成した。 
いよいよそれらしくなってきたな。 



28:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 14:04:53.70 ID:uxwqRYpB0
やりたいことリスト。たとえば、こんな感じだ。 

 ・幼馴染に会って礼を言う 

 ・親友と会って馬鹿話をする 

 ・なるべく多くの時間を家族と過ごす 

 ・知人全員に向けて遺書を書く 

 ・大学には行かない 

 ・アルバイトにも行かない 

まあ、全体的に平凡な発想だ。 
誰に書かせても似たような感じになるだろうな。 



32:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 14:12:20.21 ID:uxwqRYpB0
いつの間にか真後ろにミヤギがいて、 
俺の書いたリストを眺めていた。 

「それ、やめた方がいいですよ」 
一つ目の項目を指差して、彼女は言った。 
”幼馴染に会って礼を言う”。 

「なぜ?」と俺はミヤギに訊ねた。 

――幼馴染について、ちょっと説明するか。 
夢にも出てきたその子と俺は、四歳からの仲でさ。 
彼女が転校するまでは、どこにいくにも一緒だったんだ。 



33:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 14:14:44.48 ID:uxwqRYpB0
中学に入って新しい環境に馴染めず、 
クラスで孤立した俺に唯一毎日話しかけきて、 
「どうしたの?」って聞いてくれたのも幼馴染だった。 

離れ離れになった後も、辛いことがあったとき、 
俺が思い浮かべるのは幼馴染のことだった。 

彼女がいなきゃ、今の俺は無かっただろうな。 
まあ、無いなら無いでいいんだけどな。 

とにかく俺は彼女に感謝していたんだ。 
ここ数年まったく連絡はとっていなかったが、 
もし彼女に何かあったら、真っ先に駆けつけようと思ってた。 
どんな形でもいいから、彼女に恩返ししたいと思ってたんだ。 



34:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 14:17:21.94 ID:uxwqRYpB0
「その幼馴染さんですけど」とミヤギは告げる。 

「十七歳で出産してるんです。で、高校を退学。 
十八歳で結婚しますが、十九歳で離婚してます。 
二十歳の現在は、一人で子育てしてますね。 
ちなみに二年後、首吊り自殺することになってます。 

いま会いにいくと、多分『お金貸せ』とか言われますよ。 
あなたのこと、ほとんど覚えてませんし」 



35:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 14:20:27.06 ID:uxwqRYpB0
俺がどんな反応を示したかって? 
そりゃ、がっつり傷ついたさ。がっつりな。 
一番大切な記憶を台無しにされたんだからな。 

情けない話なんだが、二十歳になっても、 
俺の根っこの部分はどこまでもピュアと言うか 
ナイーヴというかセンシティヴというか、 
ようするに子供の頃から成長していなかったんだな。 

何かが変わったり、何かが終わっていく、 
そういうことが、いまだに耐えらないんだよ。 
成人男性のくせにカナリヤ並に敏感なんだ。 



36:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 14:22:32.67 ID:uxwqRYpB0
それでも俺は極力気にしていないふりをして、 
「ふうん」と言いながら煙草に火を点けた。 

三本くらい吸うと、体調が悪いせいか、 
嫌な感じに頭が痛くなってきてたな。 
でも吸い続けた。色んなことを忘れるために。 

ミヤギは部屋のすみに戻っていった。 
で、ノートにさらさらと何かを書いてたな。 

気が付くと、いつの間にか日が落ちていた。 
俺は自分の書いたリストに目を落とし、 
幼馴染の項に取り消し線を引いた。 

それからもう一度リストをじっくり眺めて、 
電話を手に取り、ゆっくりボタンを押した。 



38:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 14:26:23.27 ID:uxwqRYpB0
『どうしたの? 珍しいね、あんたからかけてくるなんて』 
お袋の声を聞くのは、本当に久しぶりだった。 
バイトと勉強が忙しくて電話をする暇がなかったからな。 

「急で悪いけど、今から実家に帰っていいかな」。 
俺はお袋にそう聞くつもりだったんだ。 
で、家族の無償の愛とやらに包まれながら、 
余生を穏やかに過ごそうと思ってたんだよ。 
だが、こっちが何か言う前に、お袋はべらべらと喋り出した。 

それは俺の二つ下の、弟の話だった。 
お袋はことあるごとにあいつの話をしたがるんだよ。 

というのも俺の弟、ちょっとした有名人なんだ。 
野球をするために生まれてきたような男でさ、 
一年の時から甲子園で投げてるんだよ。 
テレビにもしょっちゅう出てるんだ。自慢の弟さ。 



39:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 14:28:05.41 ID:uxwqRYpB0
弟の相変わらずの大活躍については勿論のこと、 
お袋は、弟が連れてきた恋人の話までし始めた。 

「とにかく美人なのよ」とお袋は二十回くらい言った。 
「同じ人間とは思えないほど美人でね、その上性格も……」 
まるでもう孫ができましたみたいな話ぶりでさ。 
俺の話なんて全く聞こうとはしてねえんだよな。 

実家に帰ろうという気持ちは、段々としぼんでいった。 
最近では、その弟の素敵な恋人さんってのを、 
しょっちゅう家に招いて夕食を一緒にするらしい。 
その場に俺が混ざるのを想像しただけで死にたくなったね。 

俺は適当なところで電話を切った。実家に帰るのは、やめた。 



41:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 14:33:48.02 ID:uxwqRYpB0
今日は何をしても駄目な日なんだ、と俺は決めつけた。 
好きなことでもして気分を紛らそうじゃないか。 
それで明日になったら、また何をするか考えよう。 

というわけで、欲望の赴くままに過ごそうと決めた俺だったが、 
その上で、どうしても邪魔になるやつが部屋のすみにいるんだよな。 

「私のことはいないと思ってくださって結構ですよ」 
俺の気持ちを察したのか、ミヤギはそう言う。 
だが、本人がいくらそう言っても、気になるものは気になる。 
自分で言うのもなんだが、俺はかなり神経質なんだ。 

同世代の女の子に見られてるのを意識しだすと、 
行動のひとつひとつがおかしくなるんだよ。 
「自然体っぽい格好よさ」を出そうとしちまうんだな。 
気付くと髪を触ってるんだ。完全に自意識過剰だ。 



43:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 14:37:17.01 ID:uxwqRYpB0
しばらくは、手元に残ってた本の中でも一番難解な 
「フィネガンズ・ウェイク」を読んで格好つけてた。 
当然、内容はさっぱり頭に入ってこなかった。 
余命三ヶ月だってのに、何をやってるんだろな。 

読書に飽きた俺は近所のスーパーに行って、 
グラス付きのウイスキーと氷を買った。 
ミヤギも菓子パンやら何やらを買いこんでた。 
それを見た俺は、なんか幸せな錯覚に陥ってさ。 

実を言うと、俺には昔から憧れがあったんだよ。 
同居してる子と部屋着のままスーパーに行って、 
食材とかお酒を買って帰ってくる、って行為に。 

羨ましいなー、って思いながらいつも見てた。 
だから、たとえ監視が目的だろうと、若い女の子と 
夜中のスーパーで買物するってのは楽しかったんだ。 
むなしい幸せだろ? でも本当だから仕方ない。 



44:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 14:40:27.54 ID:uxwqRYpB0
家に帰って、ウイスキーをちびちび飲んでいるうちに、 
俺は久しぶりに良い気分になってきた。 
こういうとき、アルコールってのは偉大だな。 

部屋のすみでノートに何かを書いているミヤギに 
俺は近づき、「一緒に飲まない?」と誘ってみた。 

「結構です。仕事中なので」 
ミヤギはノートから顔も上げずに断った。 

「それ、何書いてんだ?」と俺は聞いた。 

「行動観察記録です。あなたの」 

「そうか。いま俺は、酔っ払ってるよ」 

「そうでしょうね。そう見えます」 
ミヤギはめんどくさそうにうなずいた。 
実際めんくせーんだろうな、俺。 



45:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 14:44:30.05 ID:uxwqRYpB0
完全に酔いが回った俺は、なんだか自分が 
悲劇の主人公になったような気がしてきた。 

で、落胆の反動っていうか、双極性っていうかさ。 
急にポジティブになったんだよ。 
得体のしれない活力が溢れてきたわけ。 

俺はミヤギに向かって、高らかに宣言した。 
「俺は、この三十万円で、何かを変えてみせる」 

「はあ」とミヤギは興味なさそうに言った。 

「たった三十万円だろうと、これは俺の命だ。 
三百万や三億より価値のある三十万にしてやる」 

俺としては、かなり格好良いことを言ったつもりだったね。 



46:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 14:47:44.89 ID:uxwqRYpB0
でもミヤギはしらけっぱなしだった。「皆、同じことを言うんですよ」 

「どういうことだ?」と俺は聞いた。 

「死を前にした人は、皆、極端なことを言うようになるんです。 
……でもですよ、クスノキさん。よーく考えてください」 
ミヤギは感情のない目で俺を見すえて言った。 

「三十年で何一つ成し遂げられないような人が、 
たった三か月で何を変えられるっていうんですか?」 

「……やってみなきゃわかんないさ」と俺は言い返したが、 
実際、彼女の言ってることは、どこまでも正しいんだよな。 



48:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 14:50:44.18 ID:uxwqRYpB0
俺はそこであることに気付いて、ミヤギに聞いた。 
「なあ、あんた、もしかして、この先三十年かけて 
俺の人生に起こるはずだったこと、全部知ってんのか?」 

「大体は知ってますよ。もう意味のないことですけどね」 

「俺に取っちゃ相変わらず有意味だよ。教えてくれ」 

「そうですねえ」とミヤギは足を崩しながら言う。 
「まず一つ言えるのは、あなたが売った三十年の中で、 
あなたが誰かに好かれることはありません」 

「それって悲しいことだよな」と俺は他人事のように言った。 



49:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 14:53:18.82 ID:uxwqRYpB0
「あなたは誰のことも好きになることができず、 
そんなあなたを周りの人間が好きになるはずもなく、 
相互作用でどんどんあなたと他人の距離は開いて、 
最終的に、あなたは世界に愛想を尽かされるんです」 

ミヤギはそこでちらっと俺の目を見た。 

「『それでも、いつかいいことがあるかもしれない』。 
そんな言葉を胸にあなたは五十歳まで生き続けますが、 
結局、何一つ得られないまま、一人で死んでいきます。 
最後まで、『ここは俺の場所じゃない』って嘆きながら」 

「それって悲しいことだよな」と俺は機械的に繰り返した。 
でも内心、やっぱりしっかり傷ついていた。 
ただ、かなり納得できる話でもあったな。 



50:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 14:56:24.25 ID:uxwqRYpB0
さらにミヤギが続けた話によれば、 
俺は四十歳でバイク事故を起こすらしい。 
その事故で顔の半分を失い、歩けなくなるとか。 

かなり気のめいる話だったが、一方で、 
それを経験する前に死ねることを考えると、 
案外俺はラッキーなのかもしれないと思った。 

そうなんだよな、半ば期待する余地があるから、 
五十年も無意味な人生を送ったりしちまうんだ。 
完全に良いことが何もないって分かってれば、 
逆に何の未練もなく逝けるってもんだ。 



51:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 14:58:44.63 ID:uxwqRYpB0
俺は気を紛らそうとして、テレビをつけた。 
番組ではスポーツ特集をやっているらしかった。 
まずいと思ってチャンネルを変えようとした頃には、 
弟の顔と名前がしっかり画面上に出ていた。 

俺は反射的にグラスを投げつけてたね。 
テレビが倒れて床に落ち、グラスの破片が飛び散る。 

俺はふっと我に返り、ミヤギの方を見る。 
彼女は明らかに警戒した様子で俺のことを見ている。 

「弟なんだよ」と俺は努めて明るく言ったんだが、 
それが逆に本格的にイカれてる人っぽくて笑えたな。 

「……弟さんのこと、あんまり好きじゃないんですね?」 
ミヤギは軽蔑するような調子で言った。 
「あんまりね」と俺はうなずいた。 
隣の部屋から壁を殴る音がした。 



52:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 15:00:43.05 ID:uxwqRYpB0
割れたグラスを片付けたりなんかしていると、 
俺の酔いはまずい感じに醒めてきた。 
このまま完全にアルコールが抜ければ、 
最悪の精神状態になるのが目に見えてた。 

だから俺はある人に電話をかけたんだ。 
思うに、これもまた最悪の選択だったな。 
俺ってやつは、自分で自分の人生を 
悪い方向に転がすことにかけては一流なんだ。 

電話の相手は、高校の頃の一番の友人だった。 
数か月間一度も連絡をとってなかったのに、 
「今から会えないか」なんて無茶なことを言う俺に、 
友人は「今からそっちにいくよ」と快く応じてくれた。 

その時は、ちょっと救われた気でいたな。 
まだ俺のことを気に掛けてくれている人がいるんだ、って思った。 



53:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 15:03:11.81 ID:uxwqRYpB0
この上なく情けない話なんだけどさ、 
友人と会うにあたって、俺にはちょっとした下心があった。 

このミヤギって子、見てくれはそれなりなんだよ。 
愛想はないけど、ふるまいがかわいいんだ。 
その子が俺の後ろをずっとついてくるわけ。 
そりゃ、それが監視員の仕事だからな。 

でさ、スーパーを歩いてる最中、俺は思ったんだよ。 
周りには、俺たち恋人同士に見えてるんじゃないか、って。 
むしろそれ以外の何に見えるって言うんだろうな? 

俺は、友人がそういった勘違いをしてくれることを期待してたんだ。 
かわいい子を連れてることを自慢したかったのさ。 
聞いてる方が恥ずかしくなるような動機だろ? 
だが俺にとっては切実だったんだ。 



54:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 15:07:06.57 ID:uxwqRYpB0
レストランのテーブルにつくと、ミヤギは俺の隣に座った。 
俺は満足して、早く友人が来ないかとうずうずしてたね。 

時計を見る。ちょっと着くのが早すぎたらしい。 
友人が来るまでコーヒーでも飲んで待つことにした。 

ウェイトレスが来ると、俺は自分の注文を言った後、 
ミヤギに向かって、「あんたはいいのか?」と聞いた。 

すると彼女は気まずそうな顔をした。 
「……あの、最初に言いませんでしたっけ?」 

「何を?」と俺は聞きかえした。 

「私、あなた以外には見えてないんですよ。 
声も聞こえてないし、触っても気付かないんです」 

ミヤギはウェイトレスの脇腹を突っついた。たしかに、無反応だった。 



55:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 15:09:09.72 ID:uxwqRYpB0
俺は目線を上げてウェイトレスの顔を見た。 
「うわあ……」って目で俺のことを見てたね。 

これはやっちまったな、と思った。 
しばらく恥ずかしさで顔が真っ赤だった。 

こうなると、友人に女の子を自慢するという 
ささやかな夢も叶わなくなったわけだ。 
二重にも三重にも惨めだったな。 
俺の場合、寿命や健康や時間なんかより、 
惨めさを売った方がよっぽど金になりそうだ。 

もう帰っちまおうかとも思ったけど、 
そこにちょうど友人が現れちまったんだ。 
俺たちは大袈裟に再会の喜びを分かち合った。 
半分ヤケだったな。もう正直どうでもよかったんだよ。 



56:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 15:14:10.69 ID:uxwqRYpB0
高校時代、俺たちは不満の塊だった。 
ことあるごとに二人でマクドナルドに居座って、 
何時間でも愚痴を言い合ったもんだった。 

多分、当時の俺たちが本当に言いたかったのは、 
「幸せになりてえなあ」の一言だったんだろう。 
でもそれを口にするのが怖くて、俺たちは、 
何時間も呪詛を吐いてうさ晴らししてたんだ。 

しかし、久しぶりに顔を合わせた友人は、 
たしかに愚痴こそ言うものの、あの頃とは 
何かが根本的に変わってしまっていた。 

なんていうか、それは現実的で妥当な愚痴なんだな。 
あの頃の理不尽で非現実的で的外れな愚痴とは違う。 
今の彼が口にするのは、バイト先の愚痴とか、 
彼女の愚痴とか、そういうのなんだ。 



57:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 15:18:21.31 ID:uxwqRYpB0
俺は耐えられなくなってきてさ。 
友人の話は露骨な自慢話になっていくし、 
隣ではミヤギがぼそぼそ俺に話しかけてくる。 

俺は二人に同時に話しかけられるのが大嫌いで、 
そういうことをされると、頭が破裂しそうになるんだ。 

で、あっさりと限界を迎えた。 
まあ、ただでさえ余裕がなかったのもあったんだろうな。 

気が付くと、俺はミヤギに「黙ってろ!」って怒鳴ってたんだ。 
店内が静まり返ったな。数秒後、一気に血の気が引いて行った。 

友人に何か言われる前に、俺は金を置いて席を立った。 
いよいよ精神異常者みたいになってきてたな。 
こりゃ三十万しかもらえないわけだ。 



58:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 15:20:36.35 ID:uxwqRYpB0
俺は夜道を歩いて帰った。酔いはすっかり醒め、 
体調は悪いくせに、目は冴えまくっていた。 

ちっとも眠れそうになくて、俺はテレビを見ようと思ったが、 
そういえば自分でグラスをぶつけて破壊したんだった。 
幸い音だけは出るみたいだったから、 
俺はそれを巨大で不親切なラジオだと思うことにした。 

缶ビールを開けて、プリッツをつまみに飲む。 
ミヤギは俺の観察記録を書いているようだった。 
俺のレストランでの愚行について書いてるんだろうな。 



60:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 15:22:21.16 ID:uxwqRYpB0
「なあ、さっきは怒鳴って悪かった」と俺は言った。 
「確かに、あんたの言う通りだったんだ。 
俺は適当な嘘でもついて、さっさと店を出るべきだった」 

「そうですね」とミヤギはこっちを見ずに答えた。 

「それを書き終えたら、一緒に飲まないか?」 

「飲んで欲しいんですか?」と彼女は聞きかえしてきた。 

「そりゃもうな。寂しいから」と正直に答えると、 
「悪いですけど、仕事中なんで無理です」と断られた。 
じゃあ最初からそう言えよって話だよな。 

夜が明けてきて、小鳥のさえずりが聞こえ始める。 
ミヤギは一分寝て五分起きるみたいなサイクルで 
俺のことを監視しているようだった。 
なんつうか、タフだよな。俺にはとてもできそうもない。 



61:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 15:27:37.89 ID:uxwqRYpB0
夕暮れになって、俺は目を覚ました。 

にわかには信じられないかもしれないが、 
もともと俺はかなり真面目な性格なんだ。 
十二時に寝て六時に起きるのが基本でさ。 
夕焼けに照らされて目覚めるってのは、新鮮な感じだった。 

部屋のすみを見ると、ミヤギは変わらずそこにいた。 
いつの間にかシャワーを浴びたらしく、 
近くを通った時にせっけんの匂いがした。 

同じ俺の部屋なのに、ミヤギのいる周辺だけは 
まったく異質の空間みたいな感じがしたな。 

俺は例のリストを眺め、今日は遺書を書くことに決めた。 
近所の商店で便箋を買ってくると、俺は万年筆を手に取った。 



62:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 15:33:55.22 ID:uxwqRYpB0
手紙なんて書くのは久しぶりだな、と思った。 
最後にまともな手紙を書いたのはいつだろう? 
俺は記憶を探る。おそらくそれは、小六の夏。 

あの夏、クラスの皆でタイムカプセルを埋めたんだ。 
銀色の球形のカプセルに、当時の宝物ひとつと、 
未来の自分への手紙を入れたんだよな。 
皆、一生懸命書いてたな。案外面白いんだよ、あれ。 

二十歳になったらそれを掘り出そうって決めてたけど、 
今のところ、何の連絡もきていなかった。 
俺だけに連絡がきてないってことも考えられるが、 
十中八九、係のやつが忘れちまったんだろう。 



63:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 15:35:48.10 ID:uxwqRYpB0
そこで俺は思ったんだよ。どうせ誰も掘り出さないなら、 
俺一人でタイムカプセルを掘り出してやろう、ってさ。 

そういうノスタルジックでロマンチックで、 
甘い感傷に浸らせてくれるものを俺は求めていた。 

夜中になると、俺は電車で小学校に向かった。 
スコップを納屋から拝借してくると、 
俺は体育館の裏に行って、穴を掘りはじめた。 

すぐに見つかるもんだと思ってたんだけど、 
案外埋めた場所って覚えてないもんでさ。 

ミヤギは、穴を掘り続ける俺を、 
近くに座ってぼうっと眺めてた。 
なんとも奇妙な光景だっただろうな。 



64:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 15:42:30.66 ID:uxwqRYpB0
結局タイムカプセルが見つかったのは、 
穴を掘りはじめてから三時間後くらいで、 
その頃にはスコップを握る両手はマメだらけ、 
身体は汗まみれ、靴は泥だらけだった。 

街灯の下に行って、俺はタイムカプセルを開けた。 
自分の手紙だけ取りだそうと思ってたんだが、 
ここまで苦労したんだし、いっそのこと、 
全部に目を通しちまおうって俺は考えた。 

顔も覚えてないようなクラスメイトの手紙を開く。 
その瞬間まで俺は完全に忘れてたんだが、 
手紙には、最後に、こういう欄があったんだよ。 
「一番のお友達は誰ですか」っていう欄がさ。 



65:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 15:47:25.29 ID:uxwqRYpB0
これまでの流れからいって予想はつくけど、 
そこに俺の名前を書いてる奴は、一人もいなかった。 

なるほどね、と俺は妙に納得してしまった。 
一番輝いて見えた小学時代さえ、この有様だ。 

ただ、ひとつだけ救いはあった。 
例の幼馴染だけどさ、あの子だけは、 
「一番のお友達」にこそ指名しなかったけど、 
手紙の文中で俺の名前を出してくれてたんだ。 
いや、これを救いと捉えるのも相当むなしい話だが。 

自分の手紙と幼馴染の手紙だけ抜きとると、 
俺はタイムカプセルを元あった場所に埋め直した。 

去り際、ミヤギがタイムカプセルを埋めた場所の上に立って、 
地面を足でとんとんと均していたことを覚えてる。 



66:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 15:51:48.68 ID:uxwqRYpB0
終電は数時間前に駅を通過していた。 
俺は駅の硬い椅子に寝そべって始発を待った。 
異様に明るいし虫も多くて、寝るには最悪の環境だったな。 

一方、ミヤギは全然平気そうでさ。 
スケッチブックを取りだして、構内の様子を描いていた。 
仕事の一環かな、と考えながら俺は眠りについた。 

始発の数時間前に目を覚ました俺は、 
外に出て自販機でアイスコーヒーを買った。 
変な場所で寝たせいで、体中があちこち痛んだ。 

まだ辺りは薄暗かった。 
構内に戻ると、ミヤギが伸びをしていた。 
なんか、人間らしい一面をようやく見た気がしたな。 
ああ、この子も伸びとかするんだ、って感心した。 



70:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 15:58:28.79 ID:uxwqRYpB0
感心ついでに、俺の中に、妙な感情が芽生えた。 

余命三ヶ月っていう状況のせいかもしれない。 
たび重なる失望のせいかもしれないし、 
連続した緊張、疲労や痛みのせいかもしれない。 

起きたばかりで寝ぼけてたのかもしれないし、 
単にミヤギという子が好みだったからかもしれない。 

まあ何でもいい。とにかくその時、不意に俺は、 
ミヤギに「酷いこと」をしてやりたくなったんだ。 
自暴自棄の手本って感じだよな。どうしようもない。 



71:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 16:02:13.72 ID:uxwqRYpB0
ミヤギに詰め寄って、俺は聞いた。「なあ監視員さん」 

「なんでしょうか」とミヤギは顔をあげた。 

「たとえば今ここで、俺があんたに乱暴なんかしたら、 
本部とやらが俺を殺すまで、どれくらいかかる?」 

彼女は特に驚かなかった。さめた目で俺を見て、 
「一時間もかからないでしょうね」とだけ答えた。 

「じゃあ、数十分は自由にできるってわけか?」 

そう俺が聞くと、彼女は俺から目を逸らして、 
「誰もそんなこと言ってませんよ」と言った。 

しばらく沈黙が続いた。 

不思議なことに、ミヤギは逃げ出そうとはしなかった。 
ただじーっと、自分を膝を見つめてた。 



72:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 16:05:02.42 ID:uxwqRYpB0
「……危険な仕事なんだな」 
そう言って、俺はミヤギの二つ隣に座った。 

彼女は俺から目を逸らしたまま、 
「ご理解いただけたようで何よりです」と言った。 

俺の神経の昂りはすっかり収まっていた。 
ミヤギの諦めきったような目を見ていたら、 
こっちまで悲しくなってきたんだよ。 

「俺みたいなやつ、少なくないんだろう? 
死を前にして頭をおかしくしちまって、 
監視員に怒りの矛先を向けるようなやつ」 

ミヤギは首をゆっくり振った。 
「あなたは、どちらかと言えば楽なケースですよ。 
もっと極端な行動に出る人、たくさんいましたから」 



75:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 16:10:42.28 ID:uxwqRYpB0
「……何で、そんな危ない仕事を、 
あんたみたいな若い子がやってるんだ?」 

俺がそう聞くと、ミヤギはぽつぽつと話し始めた。 

話によると、彼女には借金があるらしかった。 
原因は彼女の母親にあるのだという。 

なんでも、たいした人生でもないくせに、 
借金までして寿命を買いあさったらしい。 
それなのに病気であっさり死んでしまって、 
そのツケをこの子が払うことになったんだとか。 
清々しいくらい胸糞悪い話だったな。 



76:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 16:12:54.90 ID:uxwqRYpB0
「借金ですが、私の寿命を全部売って、 
ようやく返しきれるかどうかって額なんです。 
あとちょっとで勝手に寿命を売られるところだったんですが、 
諦めかけた時、この監視員の仕事を紹介されたんですよ。 

この仕事、大変ですが、稼ぎはすごくいいんです。 
このまま続けていれば、私が五十歳になる頃には、 
全額返しきれてるんじゃないかと思います」 

”五十歳になる頃には”、か。 
これもまた、げんなりさせられる話だった。 

彼女はまるでそれを救いのように話してたが、 
自分が何かしたわけでもないのに、あと数十年、 
俺みたいなやつの相手をし続けなきゃいけないわけだろ? 



78:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 16:15:42.86 ID:uxwqRYpB0
「そんな人生、全部売っちまえばいいじゃねえか。 
五十まで生き残れる保証なんてないんだろ?」 
俺がそう言うと、彼女は少し困ったような顔をした。 

「たしかに、実際、監視員の仕事をしてる中で 
監視対象に殺されてる人も、たくさんいますね。 
でも……ほら、簡単には割り切れませんよ。 
いつかいいことあるかもしれないじゃないですか」 

「そう言ってて、五十年間何一つ得られないまま 
死んでいった男のことを、俺は一人知ってるぜ」 

「それ、私も知ってます」とミヤギはちょっとだけ微笑んだ。 
なんだか嬉しかったな。俺の冗談で彼女が笑ってくれたことが。 



82:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 16:21:15.37 ID:uxwqRYpB0
始発電車に乗り、スーツや制服に囲まれた中、 
俺は周りの目も気にせずミヤギに話しかけた。 

「タイムカプセルの中でさ、『一番のお友達』に 
俺を選んでくれてる人はいなかったけど、 
それでもやっぱり幼馴染のあの子だけは、 
俺の名前を手紙の中で出してくれてたんだよ」 

もちろん、周りにはミヤギの姿が見えていないから、 
ひとりごとを言っているように見える。完全に不審者だ。 

ミヤギは心配そうな顔で言う。 
「あの、皆見てますよ。変な人だと思われてますよ」 

「いいよ。思わせとけよ。実際、変な人なんだから。 
……それでさ、あらためて駅で考えたんだけど、 
やっぱり俺にとっては、たとえどんなに変わり果てようと、 
幼馴染のあの子は、俺の人生そのものなんだよ」 



83:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 16:23:56.15 ID:uxwqRYpB0
「それで、どうしようっていうんですか?」 

「最後に一度だけ、彼女に会って話がしたい。 
そしてさ、俺に人生を与えてくれた恩返しに、 
俺の寿命を売って得た三十万を、彼女に渡したいんだ。 
多分あんたは反対するだろうけど、別にいいだろ、 
俺の寿命を売って稼いだ俺の金なんだから」 

「……そこまで言うなら、別に反対しませんよ。 
でも電車内で話すのは、もうやめましょう。 
見てるこっちが恥ずかしいですよ」 
とは言いつつも、ミヤギは妙に楽しそうだった。 

家には帰らず、俺はそのまま街へ向かった。 
トーストとゆで卵をコーヒーで胃に流し込むと、 
俺は深呼吸して、幼馴染に電話をかけた。 



89:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 19:54:19.48 ID:VnWGrOgI0
夜だったら会える、と幼馴染は言ってくれた。 
好都合だった。こちらも色々と準備があるからな。 

俺はミヤギの手を取って、ぶんぶん振りながら歩いた。 
道行く人には一人でそうやってるように見えただろうけど、 
俺は気分がハイになってたから、どうでもよかった。 
ミヤギは困ったような顔で俺に引っ張られるままにしてたな。 

まず美容室へ向かい、二時間後に予約を入れた俺は、 
ショップに行って服と靴を買い、その場で着替えた。 
新品の服を買うのなんて数年ぶりだった。 

新しい服に着替えて髪を切った俺の姿は、 
なんだか俺じゃない誰かみたいだった。 

ミヤギもまったく同じ感想をくれた。 
「なんか、まるで別の人みたいですね」 
正直言って嬉しかったな。俺、悪くないじゃん! 



91:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 19:57:37.40 ID:VnWGrOgI0
待ち合わせまで暇だったから、俺はミヤギに頼んで、 
幼馴染と会ったときの予行演習をすることにした。 

昨日友人と会った時のレストランに入り、訓練を始める。 
正面に座ったミヤギに向かって俺は微笑み、 
「どうだミヤギ、感じ良く見えるか?」と聞く。 
周りから見れば、壁に向かって微笑みかける変人だ。 

ミヤギはサンドイッチをもそもそ食べながら答える。 
「んー、ちょっと笑顔がこわばってますね。 
普段笑わないから、表情筋が弱ってるんですよ」 

「そうか。なら、夜までに鍛え上げてみせるさ」 
俺は何度も笑ったり真顔になったりを繰り返す。 

「……あなた、なんていうか、おもしろいですね」 

「ああ。魅力的だろ? 惚れないように気をつけろよ?」 

「気を付けます。しかし、浮き沈みの激しい人ですね」 

実際、かなり浮かれてたんだよ、その時は。 



92:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 20:02:56.34 ID:VnWGrOgI0
電話してから幼馴染に会うまで 
大体八時間くらい間があったんけど、 
俺には二十七時間くらいに感じられたね。 
五秒に一回くらい腕時計を見てた気がする。 

ぎりぎりまで俺は、ミヤギで訓練してた。 
どうすりゃ相手に良い印象を与えられるか、 
カフェのすみで、二人で試行錯誤してたな。 

――そうして、ついに待ち合わせの時間が来た。 
待ち合わせ場所にやってきてくれた幼馴染を見て、 
俺はその外見や口調の変化にとまどいつつも、 
笑い方や仕草が変わっていないのに気づいて、 
それだけで、本当に電話してよかったと思った。 

「ひさしぶり」と彼女は言った。「元気にしてた?」 
「元気にしてたよ、そっちは?」と俺は答えたが、 
余命三か月の俺が元気だって言うのも笑えるよな。 



93:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 20:08:12.45 ID:VnWGrOgI0
外見にそれなりに金をかけたおかげか、 
幼馴染は俺のことを気に入ってくれたみたいだった。 
「ずいぶん変わったね」と言いながらべたべたしてくる。 

なんていうかさ、いける感じの雰囲気だったんだよ。 
訓練の成果と、未来を知ってるがゆえの余裕もあって、 
俺はかなりの好印象を幼馴染に与えることに成功してた。 

しかし俺ってやつはさ、本当に物事を 
台無しにしないと気が済まないらしいんだよな。 

近況を語りたがる幼馴染の話をさえぎって、 
何と俺は、寿命を売った件について話し始めたんだよ。 
「あのさ、俺、余命三か月しかないんだよ」って 
同情を引くような調子で語りはじめたんだ。 



94:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 20:14:48.55 ID:VnWGrOgI0
心のどこかで俺は、この幼馴染なら、 
俺の話を真面目に聞いてくれる、俺に深く同情し、 
慰めてくれるって信じてたんだろうな。 

でも話が始まって五分とたたずに、 
幼馴染は退屈そうな反応を示し出した。 
馬鹿にしたような顔で、「ふーん?」とか言うのな。 

もちろん間違ってるのは俺で、悪いのは俺なんだ。 
俺だって突然、寿命を買い取る店がどうだの 
監視員がこうだの言われても、信じないだろう。 
大笑いされなかっただけマシだと思う。 

幼馴染は「ちょっと失礼」と言って立ち上がった。 
トイレにでも行くんだろう、と俺は思ってた。 
その直後に、注文した料理が二人分届いた。 
俺は早く続きを話したくて仕方なかったな。 

でも幼馴染は戻ってこなかった。 
料理が冷めるまで待ったけど、戻ってこなかった。 
また俺は”やっちまった”わけだ。 



95:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 20:20:09.76 ID:VnWGrOgI0
俺は冷めたパスタをゆっくり食べた。 
しばらくすると、ミヤギが正面に座って、 
幼馴染の分のパスタをぱくぱく食べ始めた。 
「冷めてもおいしいですね」とミヤギは言った。 
俺は何も言わなかった。 

店を出ると、俺は駅前の橋に向かった。 
そしてそこで、幼馴染に渡すはずだった 
三十万円の入った封筒を胸から取り出し、 
道行く人に、一枚ずつ配って歩いた。 

「やめましょうよ、こんなこと」とミヤギが言う。 
「別に人に迷惑はかけてないだろ」と俺は返す。 

どいつもこいつも、渡されたのが金だと分かると、 
薄っぺらい礼を言うか、怪訝そうな顔をした。 
断る奴もたくさんいたし、もっとよこせと言う奴もいた。 



96:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 20:23:15.89 ID:VnWGrOgI0
三十万はあっという間になくなった。 
俺は勢い余って、財布の金にまで手を出した。 

きっと俺は、誰かに構って欲しかったんだろうな。 
「何かあったんですか?」とか聞いて欲しかったんだろう。 

三十三万円配り終えると、俺は道の真ん中で立ち尽くした。 
道行く人が不快そうに俺のことを眺めていた。 

タクシー代も残っていなかったので、 
俺は建物の陰になっているベンチで寝た。 
真上に傾いた街灯があって、しょっちゅう点滅していた。 
ミヤギも正面のベンチで寝るようだった。 
女の子にひどいことさせんてなあ。 

「先に帰っていいんだぞ?」 
俺がミヤギにそう言うと、彼女は首をふった。 
「そしたらあなた、自殺とかしそうですから」 



97:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 20:27:15.69 ID:VnWGrOgI0
眠りにつくまで、俺は真上に広がる星空を眺めていた。 

最近、夜空を見る機会が増えた。七月の月は、綺麗だ。 
俺が見逃していただけで、五月も六月もそうだったのかもしれない。 

俺はいつものように、眠りにつく前の習慣を始めた。 
頭の中に、いちばんいい景色を思い浮かべる。 
俺が本来住みたかった世界について、一から考える。 

五歳くらいから、ずっとやってる習慣だった。 
ひょっとしたら、この少女的な習慣が原因で、 
俺はこの世界に馴染めなくなったのかもな。 



98:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 20:30:22.27 ID:VnWGrOgI0
六時ごろに目を覚まして、俺は歩いてアパートまで帰った。 
街の外れでは朝市をやっていて、早朝から騒がしかった。 

四時間くらい歩いて、ようやくアパートについた。 
一昨日の件もあって、両腕両足が悲鳴を上げてたな。 
もっと安らかに生きることはできないのかね、俺は。 

シャワーを浴びて着替えると、寝なおした。 
ベッドだけは俺を裏切らない。俺はベッドが大好きだ。 

さすがのミヤギもそれなりに疲れたらしく、 
監視もほどほどに、すぐシャワーを浴びて、 
部屋のすみっこでうつらうつらしていた。 



99:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 20:33:47.33 ID:VnWGrOgI0
机の上には、書きかけの遺書があった。 
だが、続きを書くのは何だか馬鹿らしかった。 
誰も俺の言葉なんて気にしちゃいないんだ。 

会いたい人もいないし、そうなると、 
いよいよすることがなくなってしまった。 
散財しようにも金は昨日配りきってしまったし。 

「何か他に好きなことはないんですか?」 
ミヤギは俺にを励ますように、そう訊ねた。 
「やりたかったけど、我慢してたこととか」 

そこで割と真剣に考えてみたんだけど、 
俺、どうやら好きなことがあんまりないらしい。 
あれ、今まで何を楽しみに生きたんだっけ? 



100:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 20:37:32.94 ID:VnWGrOgI0
かつて趣味だった読書も音楽鑑賞も、 
あくまで「生きていくため」のものだったんだよな。 
人生に折り合いをつけるために音楽や本を用いてたんだ。 

いざ余命三か月となると、何もしたいことがなかった。 
薄々感づいてはいたけど、俺って生き甲斐がないんだ。 
寝る前の空想だけを楽しみに生きてたとこがあるな。 

監視員は言う、「別に無意味なことだっていいんですよ。 
私が担当した人の中には、余命二か月すべてを、 
走行中の軽トラックの荷台に寝そべって 
空を見上げることに費やした人もいるんです」 

「のどかだな、そりゃ」と俺は笑った。 



101:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 20:40:35.29 ID:VnWGrOgI0
さらにミヤギは、こう言った。 
「考える時は、外に出て歩くのが一番です。 
お気に入りの服に着替えて、外に出ましょう」 

いいこと言うじゃないか、と俺は思った。 
段々とこの子は、俺に優しくなってきているように見える。 

もしかすると、監視員は監視対象との接し方が決まっていて、 
彼女はそれに従っているだけなのかもしれないが。 

俺はミヤギのアドバイスに従って外を歩いた。 
ものすごい日差しが強い日だったな。髪が焦げそうだった。 
すぐに喉が渇いてきて、俺は自販機でコーラを買った。 

「あ」、と俺は小さく声を漏らした。 



102:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 20:44:32.07 ID:VnWGrOgI0
「どうしました?」 

「……いや、実にくだらない事なんだけどさ。 
好きなもの、一つだけあったことを思いだした」 

「言ってみてください」 

「俺、自動販売機が大好きなんだよ」 

「はあ。……どこら辺が好きなんですか?」 

「なんだろな。具体的には自分でも分からないんだが、 
子供の頃、俺は自動販売機になりたかったんだ」 

きょとんとした顔でミヤギは俺の顔を見つめる。 



103:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 20:51:29.82 ID:VnWGrOgI0
「あの、確認ですけど、自動販売機って、 
コーヒーとかコーラとか売ってるあれですよね?」 

「ああ。それ以外も。焼きおにぎり、たこ焼き、 
アイスクリーム、ハンバーガー、アメリカンドッグ、 
フライドポテト、コンビーフサンド、カップヌードル…… 
自販機は実に様々なものを提供してくれる。 
日本は自販機大国なんだよ。発祥も日本なんだ」 

「んーと……個性的な趣味ですね」 
なんとかミヤギはフォローを入れてくれる。 

実際、くだらない趣味だ。見方によっては、 
鉄道マニアを更に地味にしたような趣味。 
くだらねー人生の象徴だよなあ、と自分で思う。 


105:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 20:54:05.52 ID:VnWGrOgI0
「でも、なんとなく分かる気はします」 

「自販機になりたい気持ちが?」 

「いえ、さすがにそこまでは理解不能ですけど。 
自販機って、いつでもそこにいてくれますから。 
金さえ払えば、いつでも温かいものくれますし。 
割り切った関係とか、不変性とか、永遠性とか、 
なんかそういうものを感じさせてくれますよね」 

俺はちょっと感動さえしてしまった。 
「すげえな。俺の言いたいことを端的に表してるよ」 

「どうも」と彼女は嬉しくもなさそうに言った。 



106:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 20:56:48.97 ID:VnWGrOgI0
そういうわけで、俺の自販機巡りの日々が始まった。 

原付に乗って、田舎道をとことこ走る。 
自販機を見かけるたびに何か買って、 
ついでに安物の銀塩カメラで撮影する。 
別に現像する気はないんだけど、何となくな。 

そんな無益な行為を数日間繰り返した。 
こんなくだらない趣味一つをとっても、 
俺よりもっと本格的にやっている人が沢山いて、 
その人たちには敵わないってことも知っている。 

でも俺は一向に構わなかった。なんか生きてる感じがした。 

俺のカブ110は幸いタンデム仕様だったので、 
ミヤギを後ろに乗せて、色んなところをまわれた。 
ようやくやりたいことが見つかって、天気にも恵まれて、 
俺の生活は一気にのどかなものに変わった。 



110:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 21:07:57.50 ID:VnWGrOgI0
原っぱに腰を下ろして、俺は煙草を吸っていた。 
隣では、ミヤギがスケッチブックに絵を描いていた。 

「仕事しなくていいのか?」と声をかけると、 
ミヤギは手を止めて俺の方を向いて、 
「今のあなた、悪いことしなさそうですから」と言った。 

「そうかねえ」と言うと、俺はミヤギのそばに行き、 
彼女が線で画用紙を埋めていく様を眺めた。 
なるほど、絵ってそうやって描くのか、と俺は感心していた。 

「でも、そんなに上手くないな」と俺がからかうと、 
「だから練習するんです」とミヤギは得意気に言った。 

「今まで書いた奴、見せてくれ」と頼むと、 
彼女はスケッチブックを閉じて鞄に入れ、 
「さあ、そろそろ次に行きましょう」と俺を急かした。 



111:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 21:11:56.75 ID:VnWGrOgI0
ある日、俺が目を覚まして部屋のすみを見ると、 
そこにいつもの子の姿はなくて、代わりに、 
見知らぬ男がかったるそうに座っていた。 

「……いつもの子は?」と俺はたずねた。 

「休日だよ」と男は答えた。「今日は、俺が代理だ」 

そうか、監視員にも休日とかあるんだな。 
「へえ」と俺は言い、あらためて男の姿を眺めた。 
露天商とかにいそうな感じの、うさんくさい男だった。 
すげえ遠慮のない感じで存在感を撒き散らしてたな。 



112:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 21:16:17.23 ID:VnWGrOgI0
「お前の寿命、最安値だったらしいな?」 
男は露骨に俺をからかうような調子で言う。 
「すげえすげえ。そんなやついるんだな」 

「すげえだろ? なり方を教えてやろうか?」 
俺が淡々と返すと、男はちょっと驚いたような顔をした。 

「……へえ、お前、結構余裕あるみたいだな?」 

「いや、しっかり今ので傷ついてる。強がりさ」 

男は俺の発言が気に入ったらしく、 
「お前みたいな奴、嫌いじゃないよ」と笑った。 



113:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 21:18:28.43 ID:VnWGrOgI0
監視員が男になったことによって、 
俺はかなりリラックスできるようになった。 

男はそんな俺の様子を見て、言う。 
「女の子が傍にいると落ち着かねえだろ? 
なんかキリっとしたくなるよな。分かるぜ」 

「そうだな。あんたの傍は落ち着くよ。 
あんたになら、どう思われようと構わないから」 

俺は『ピーナッツ』を読みながらそう答えた。 
ミヤギの前では恥ずかしくて読む気になれなかった本。 
そう、実を言うと、俺はスヌーピーが大好きなんだ。 

「そうだろうな。……ああそうだ、ところでお前、 
結局、寿命を売った金は何に使ったんだ?」 
そう言うと、男は一人でくっくっと笑った。 



114:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 21:21:32.39 ID:VnWGrOgI0
「一枚ずつ配って歩いた」と俺は答えた。 

「一枚ずつ?」と男はいぶかしげに言った。 

「ああ。一万円を三十枚、三十人に一枚ずつ。 
本当は人にあげるつもりだったが、考えが変わった」 

すると男はタガが外れたように笑い出したんだ。 

それから、俺にこんな質問をしてきたんだよ。 


「なあ、お前――まさか、本当に自分の寿命が 
三十万だって言われて信じちゃったのか?」 



115:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 21:25:56.79 ID:VnWGrOgI0
「どういうことだ?」と俺は男に聞いた。 

「どういうも何も、言葉そのままの意味だ。 
本当に自分の寿命、三十万だと思ったのか?」 

「そりゃ……最初は、安すぎると思ったが」 

男は床を叩いて笑う。俺は不愉快になってきた。 

「そうかそうか。俺からはちょっと何も言えないが、 
まあ、今度あの子に会ったら、直接聞いてみな。 
『俺の寿命、本当に三十万だったのか?』ってな」 



118:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 21:28:34.12 ID:VnWGrOgI0
次の朝、アパートにやってきたミヤギに、 
俺は男に言われた通りのことを訊ねてみた。 

「もちろんですよ」と彼女は答えた。 
「残念ですが、あなたの価値、そんなものなんですよ」 

「ふうん」と俺が小馬鹿にしたような態度で言うと、 
ミヤギは俺が何かに気付いていることを察したらしく、 
「代理の人に、何か言われたんですか?」と俺に聞いた。 

「俺はただ、もう一回確認してみろって言われただけさ」 

「……そんなこと言っても、三十万は三十万ですよ」 
あくまでしらを切り通すつもりらしいんだな。 



130:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 21:37:09.37 ID:VnWGrOgI0
「最初は、あんたがネコババしてると思ったんだ」 

ミヤギは、ちょっとだけ目を見開いてこちらを見た。 

「俺の本来の値段は三千万とか三億なのに、 
あんたがこっそり横領したんだと思ってた。 
……でも、どうしても信じられなかったんだよな。 
何か俺は根本的な勘違いをしてるんじゃないか、と思った。 
それで一晩考え続けて、ふと気づいたんだ。 

――そもそも俺は、前提から間違ってたんだな。 
どうして寿命一年につき一万円という値段が、 
最低買取価格だなんて信じてたんだろう? 
どうして人の一生が本来数千万や数億で売れて 
当たり前だなんて信じてたんだろう? 

多分よけいな前知識がありすぎたんだな。 
自分の勝手な常識に物事を当てはめ過ぎた。 
俺はもっと、柔軟に考えるべきだったんだ」 

俺は一呼吸おいて、それから言った。 

「なあ、どうして見ず知らずの俺に、 
あんたが三十万も出す気になったんだ?」 



141:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 21:41:52.62 ID:VnWGrOgI0
ミヤギは俺の言葉の意味を分かっているみたいだったが、 
「何を言ってるのかさっぱりわかりませんね」と言って、 
いつものように部屋のすみに腰を下ろした。 

俺はミヤギが座っている位置の 
対角線上にある部屋のすみに移動して、 
彼女と同じように三角座りをした。 

ミヤギはそれを見て、ちょっとだけ微笑んだ。 
「あんたがしらんぷりするなら、それでもいい。 
でも一応言わせてもらうよ。ありがとう」 

俺がそう言うと、ミヤギは首をふった。 
「いいんですよ。こんな仕事ずっと続けてたら、 
どうせ借金を返し終わる前に死んじゃうんです。 
仮に払い終えて自由の身になったとしても、 
楽しい人生が約束されてるわけでもないし。 
だったらまだ、そういうことに使った方がいいんです」 



146:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 21:44:51.06 ID:VnWGrOgI0
「実際のとこ、俺の価値っていくらだったんだ?」 

ミヤギは「……三十円です」と小声で言った。 

「電話三分程度の価値か」と俺は笑った。 
「悪かったな、あんたの三十万、あんな形で使っちまって」 

「そうですよ。もっと自分のために使って欲しかったです」 
怒ったような言い方をしつつも、ミヤギの声は優しげだった。 

「……でも、気持ちはすごくよくわかるんですよ。 
私があなたに三十万円与えたのも、似たような理由からですから。 
さみしくて、かなしくて、むなしくて、自棄になったんですよ。 
それで、極端な利他行為に走ったりしたんです」 



150:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 21:47:25.60 ID:VnWGrOgI0
「でも、落ち込むことなんてありませんよ。少なくとも私にとって、 
今のあなたは三千万とか三億の価値がある人間なんです」 

「変な慰めはよしてくれよ」と俺は苦笑いした。 

「本当ですよ」とミヤギは真顔で言う。 

「あんまり優しくされると、逆に惨めになるんだ。 
あんたが優しいことは十分に知ってる。だから、もういい」 

「うるさいですね、だまって慰められてくださいよ」 

「……そんな風に言われたのは初めてだな」 

「というか、これは慰めでも優しさでもないんです。 
私が言いたいことを勝手に言ってるだけですよ」 



157:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 21:55:50.93 ID:VnWGrOgI0
「……あなたにとっては、何でもないことでしょうけどね」 
そう言うと、ミヤギはちょっと恥ずかしそうにうつむく。 

「私、あなたが話しかけてくれることが、嬉しかったんですよ。 
人前でも構わずに話しかけてくれることが、すごく嬉しかったんです。 

私、ずっと透明人間だったから。無視されるのが、仕事だったから。 
普通の店でお話しながら食事したり、一緒にショッピングしたり、 
そんな些細なことが、私にとっては夢みたいでした。 
場所も状況も選ばず、どんな時も一貫して私のことを 
”いる”ものとして扱ってくれた人、あなたが初めてだったんですよ」 

「あんなことでよけりゃ、いつでもやってやるよ」 
そう俺が茶化すと、ミヤギはいじらしい笑顔を浮かべた。 

「そうでしょうね。だから、好きなんです。あなたのこと」 

いなくなる人のこと、好きになっても、仕方ないんですけどね。 
そう言って、彼女はさみしそうに笑った。 



158:名も無き被検体774号+:2013/05/07(火) 21:59:59.60 ID:VnWGrOgI0
俺はしばらく口がきけなかったな。 
ほとんど処理落ちしたみたいになっちまって。 

気を抜いたらぼろぼろ泣いちまいそうだったな。 
おいおい、このタイミングでそれは卑怯だろ、って。 

この時、無意味で短い俺の余生に、ようやくひとつの目標ができる。 
ミヤギの一言は、俺の中にすさまじい変革をもたらしたんだ。 

俺は、どうにかして、ミヤギの借金を全部返してやりたいと思った。 

一生が百円に満たないこの俺が、だ。 
身の程知らずにもほどがあるよな。 


235:名も無き被検体774号+:2013/05/08(水) 12:11:39.81 ID:3etpqdGe0
生活は一気に変わった。 
俺は自分に言い聞かせた。考えろ、考えろ、考えろ。 
どうすれば残り数ヶ月で彼女の借金を返せる? 
どうすれば彼女が安全に暮らしていけるようになる? 

こういうときに宝くじを買ったり賭け事をしても 
うまくいかないってことは分かっていた。 
いつだって、賭け事は金があまってるやつが勝つし、 
宝くじは変化を望んでないやつが当たるんだよ。 

俺はかつてのミヤギのアドバイスに従い、 
ひたすら街を歩きながら考えたんだ。 
次の日も、その次の日も、その次の日も。 
どこかに、自分にぴったりな答えが転がってると期待して。 

その間、口にはほとんど物を入れなかったな。 
空腹がある一定のラインを越えると、 
頭が冴え渡ることが分かったからだ。 


237:名も無き被検体774号+:2013/05/08(水) 12:15:55.35 ID:3etpqdGe0
ミヤギはそんな俺のことを心配してか、 
「ねえ、自販機めぐりに戻りましょうよ」と何度も言った。 
「私も自販機見るの好きになっちゃったんです。 
あなたの背中にしがみついてるのも、好きだし」 

それでも俺は歩き続け、考え続けた。 
視野はどんどん狭まって、思考も偏っていって、 
とてもアイディアなんか思いつく状態じゃなかったな。 

気が付くと、以前よく訪れていた古書店の前にいた。 
俺は店長の爺さんの顔が恋しくなって、中に入った。 

爺さんはいつも通り、野球中継を聞きながら本を読んでいた。 
俺はこの数十日で起きた一連の出来事を彼に話したかったが、 
そんなことしたら爺さんが罪悪感を覚えるかもしれないから、 
結局あの店には行かなかったふりをすることにした。 



238:名も無き被検体774号+:2013/05/08(水) 12:19:18.32 ID:3etpqdGe0
何気ない会話を、二十分くらい交わした。 
会話は全然噛み合ってなかったんだが、 
それでも俺は独特の安らぎを覚えたな。 

去り際、俺はさりげなく爺さんに訊ねた。 
「自分の価値を高めるには、どうすればいいと思います?」 

爺さんはラジオのボリュームを落とした。 
「そうさな。堅実にやる、しかねえんじゃないか。 
それは俺には出来なかったことなんだけどな。 
なんつうかな、結局、目の前にある『やれること』を、 
一つ一つ堅実にこなしていくこと以上にうまいやり方はねえんだ。 

――だが、それよりももっと大切なことがある。 
それは『俺みたいな人間のアドバイスを信用しない』ってことだ。 
成功したことがないくせに成功について語っちまうようなやつは、 
自分の負けを認めたがらないクズばっかりだからな」 



239:名も無き被検体774号+:2013/05/08(水) 12:22:28.59 ID:3etpqdGe0
古書店を出た俺は、その流れで、 
いつも通っていたCDショップに足を運んだ。 
店員の兄ちゃんには、爺さんについたのと同じ嘘をついた。 

しばらく最近聴いたCDの話をした後、俺はこう聞いた。 
「限られた期間で何かを成し遂げるには、どうすればいいんでしょうね?」 

「人を頼るしか、ないんじゃないっすかね」と彼は言った。 
「だって、自分一人の力じゃ、どうにもならないんでしょう? 
と来たら、他人の力を借りるしかないじゃないですか。 
俺、個人の力ってのをそこまで信用してないんすよ」 



240:名も無き被検体774号+:2013/05/08(水) 12:26:24.50 ID:3etpqdGe0
参考になるんだかならないんだか分からないアドバイスだったな。 
外ではいつの間にか、夏特有の大雨が降ってた。 
俺が店を出ようとすると、さっきの兄ちゃんが傘を貸してくれた。 

「よく分かんないけど、何か成し遂げたいなら、 
まず健康は欠かせませんからね」とか言ってさ。 

俺は傘をさして、ミヤギと並んで帰った。 
小さい傘だったから、お互い肩がびしょ濡れになった。 

傍から見たら俺は、見当違いな位置に 
傘をさしてる馬鹿に見えただろうな。 



242:名も無き被検体774号+:2013/05/08(水) 12:33:36.16 ID:3etpqdGe0
「こういうの、好きだなあ」とミヤギが笑う。 
「どういうのが好きなんだ?」と俺は聞きかえす。 

「周りには滑稽に見えるかもしれないけど、 
あなたが左肩を濡らしてることには、 
すっごく温かい意味がある、ってことです」 

「そうか」と俺ははにかみながら言った。 
「恥知らずの、照れ屋さん」とミヤギは俺の肩をつついた。 

すれ違う人たちが俺のことを不審そうに見ていた。 
そこで、俺はあえてミヤギと話し続けてやった。 
ここまでくると異常者扱いされるのが逆に楽しかったし、 
何より、こうすることでミヤギは喜んでくれるから。 
俺が滑稽になればなるほど、ミヤギは笑ってくれるから。 



243:名も無き被検体774号+:2013/05/08(水) 12:38:53.96 ID:3etpqdGe0
商店の軒先で雨宿りしていると、知った顔に出会った。 
同じ学部の、挨拶程度は交わす中の男だ。 
そいつは俺の顔を見ると、怒ったような顔で近づいてきた。 
「お前、最近いったいどこで何してたんだ?」 

俺はミヤギの肩に手をおいて、言った。 
「この子と遊び回ってたんだよ。ミヤギっていうんだ」 

「笑えねえよ」と彼は不快そうな顔をして言った。 
「あのな、クスノキ。前から思ってたが、お前病んでるんだよ。 
人と会わないで自分の殻にこもってるから、そういうことになるんだ」 

「あんたがそう思うのも、無理はないよな。 
俺があんたの立場だったら同じ反応を示したと思う。 
でも、確かにミヤギはここにいるんだよ。その上、かわいいんだ」 
俺はそう言って一人で大笑いした。 
彼はあきれた顔をして去っていったな。 



244:名も無き被検体774号+:2013/05/08(水) 12:49:25.70 ID:3etpqdGe0
通り雨だったらしく、雨はすぐにやみ始めた。 
空には、うすぼんやりと虹が浮かんでいたな。 

「あの、さっきの……ありがとうございます」 
ミヤギはそう言って俺に肩を寄せた。 

”堅実に”、か。 
俺は古書店の爺さんのアドバイスを思い出していた。 

考えてみれば、俺にはできる事があるんだよな。 
『借金を返す』って考えに縛られてたけどさ、 
こうやって俺が周りに不審者扱いされることだけでも、 
彼女はずいぶん救われるらしいじゃないか。 

そうなんだよ。俺は彼女に、確実な幸せを与えられるんだ。 
目の前にやれることがあるのに、どうしてそれをやらない? 



245:名も無き被検体774号+:2013/05/08(水) 12:54:27.22 ID:3etpqdGe0
バスに乗って、俺たちは湖に向かった。 
そこで俺がやらかしたことを聞いたら、 
大半の人間は眉をひそめるだろうな。 

周りには一人客に見えているのを承知で、 
俺は「あひるボート」に乗ってやったんだ。 

係員の男が「一人で?」という顔をしたので、 
俺は彼には見えていないミヤギに向かって、 
「さあ、行こうぜ」とか声をかけてやった。 
係員、半分怯えたような目をしてたな。 

ミヤギはおかしくてしかたがないらしく、 
ボートに乗っている間もずっと笑っていた。 
「だって、成人男性一人であひるボートですよ?」 
「なんか、一つの壁を越えた気がするね」と俺は言った。 



246:名も無き被検体774号+:2013/05/08(水) 13:00:47.32 ID:3etpqdGe0
一人あひるボートの後も俺は、 
一人観覧車、一人メリーゴーランド、一人水族館、 
一人シーソー、一人プール、一人居酒屋、 
とにかく一人でやるのが恥ずかしいことは大体やったな。 

どれをやるにしても、俺は積極的にミヤギに話しかけた。 
頻繁に彼女の名前を呼び、手をつないで歩いた。 

段々と、俺は不名誉な感じの有名人になっていった。 
俺の顔見るだけで指差して笑う人も、かなりいたな。 

ただ、幸運なことに、俺はいつでも幸せそうな顔をしてたから、 
俺を見て逆に楽しい気分になる人もそこそこいたらしいんだ。 



248:名も無き被検体774号+:2013/05/08(水) 13:04:53.78 ID:3etpqdGe0
そして、俺の行為をパフォーマンスだと思い込む人も増え始めたんだな。 
俺のこと、腕の立つパントマイマーだと褒めちぎるやつもいた。 

逆に、「ミヤギさんは元気?」とかたずねてくる人も現れ始めてさ。 
そう、徐々にだが、ミヤギの存在は受け入れられ始めたんだよ。 

もちろん皆、透明人間の存在を本気で信じたわけじゃなくて、 
なんつーか、俺のたわごとを、共通の“お約束”として扱い、 
俺に話を合わせてくれるようになった、って感じ。 
俺は「可哀想で面白い人」扱いを受けるようになったんだ。 

この夏、俺はこの街で、一番のピエロだったんじゃねーかな。 
良くも、悪くも。 



249:名も無き被検体774号+:2013/05/08(水) 13:08:09.76 ID:3etpqdGe0
そうそう、居酒屋で一人乾杯をしてたとき、 
俺は隣の席の男に声を掛けられたんだ。 
「あのときの人ですよね?」とか言われた。 

こっちは向こうに見覚えがなかったんだが、 
そのいかにも音大生って感じの男は、どうやら、 
あの日俺が一万円を配ったうちの一人らしかった。 

「最近、あなたの噂をよく聞きますよ。 
まるで隣に恋人がいるかのようにふるまう、 
一人で幸せそうにしている男の人の噂」 

「そんなやつがいるんですねえ」と俺は言い、 
「聞いたことある?」とミヤギにふった。 
ミヤギは「知りませんねー」と言って笑った。 

男はそんな俺の様子を見て、苦笑いする。 
「……あの、僕には何となく分かるんですよ。 
あなたの一連の行動には、深いわけがあるんでしょう? 
よかったら、僕に話してくれませんか?」 



250:名も無き被検体774号+:2013/05/08(水) 13:12:42.82 ID:3etpqdGe0
そんな風に聞いてくれた人は初めてだったな。 
俺は彼の手を取って、深く礼を言った。 

それから話したんだよ、今までのこと。 
貧乏だったこと。寿命を売ったこと。監視員のこと。 
親のこと。友人のこと。タイムカプセルのこと。 
未来のこと。幼馴染のこと。自販機のこと。 
そして、ミヤギのこと。 

話の途中、俺はつい口を滑らせて、こんなことを言った。 
「本人に直接言ったことはないんですけどね、俺、ミヤギのこと、 
自分でもどうしたらいいのか分からないくらい、深く愛してるんですよ」 

隣にいた本人は酒をこぼしそうになってたな。 
だってその通り、俺が直接ミヤギに対して 
「愛してる」なんて言ったことは一度もなかったから。 
ミヤギの反応が面白くて、俺は笑い転げたな。 



251:名も無き被検体774号+:2013/05/08(水) 13:17:10.35 ID:3etpqdGe0
「だからこそ、三十万を無駄に使ってしまったこと、 
そして彼女を疑ってしまったことへの償いがしたいし、 
何より、彼女の借金を少しでも減らしてやりたいんです。 
あの子には、こんな危ないことを続けさせたくないんですよ」 

でも、俺が真面目になればなるほど、世界はしらけるんだ。 

男はうさんくさそうな顔をしてたね。 
俺の話なんて、ちっとも信じちゃいなかったんだ。 
多分こいつは、話でも聞いてやれば、 
また俺が金をくれるとでも思ってたんだろうな。 



252:名も無き被検体774号+:2013/05/08(水) 13:19:40.16 ID:3etpqdGe0
男が去り、俺が帰り支度を始めると、 
今度は後ろに座っていたおっさんに声を掛けられた。 

「すみません。盗み聞きする気はなかったんですけど、 
さっきの話、つい最後まで聞かせてもらっちゃいました」 
安物のスーツを着たおっさんは、頭をかきながらそう言った。 

「……で、率直に、どう思いました?」と俺は聞いた。 

「その子、きっと、そこにいるんでしょう?」 
おっさんはミヤギのいるあたりを見ながら言った。 

「おお、よく分かりますね。そうなんですよ、かわいいんです」 
俺はそう言ってミヤギの頭を撫でた。 
ミヤギはくすぐったそうに目をつむっていた。 

「やっぱりそうですよね。……あの、申しわけないんせんが、 
少々お二人の時間をいただいてもよろしいでしょうか?」 

”お二人”の箇所を強調して、おっさんは言った。 



253:名も無き被検体774号+:2013/05/08(水) 13:23:11.29 ID:3etpqdGe0
おっさんは言う。 
「自分語りになってしまいそうですから手短に済ませますが、 
クスノキさん、私もあなたと似たような経験があります。 

ちょうど私があなたくらいの歳だった頃、三歳上の兄が、 
まさにミヤギさんがあなたにそうしてくれたような方法で、 
どん底にいた私のことを救ってくれたんです。 

やはり、私もあなたと同じように、決意しました。 
どうにかして兄に恩返ししてやろう、ってね。 
でも、それには時間が足りなかったんです。 
兄は消えました。私は何もできないままでした」 

そこまで言うと、おっさんはグラスの残りを飲み干した。 

「もし私が、当時の自分に何かアドバイスをするとしたら。 
私は、”限界まで耳を澄ませ”と言うと思います。 
そう、限界まで耳を澄ますんですよ。限界までね。 
――そして、あなたはまだ間に合うところにいるんです。 
ぎりぎりですけど、まだきっと間に合うはずなんです」 



254:名も無き被検体774号+:2013/05/08(水) 13:28:43.75 ID:3etpqdGe0
おっさんがいなくなった後も、俺はその言葉について考えた。 

「限界まで耳を澄ます」。そりゃ、一体どういうことだろう? 
本当にただ耳を澄ませってことなんだろうか? 
あるいは、深い意味のある有名な格言なんだろうか? 
それとも、特に意味はなく、口から出任せに言ったんだろうか? 

アパートに着くと、俺はミヤギと一緒にベッドに潜った。 
「あの男の人、いい人でしたね」と言って、ミヤギは眠った。 
すうすう寝息を立てて、子供みたいに安らかな顔で。 
それは何回見ても、慣れないし、飽きないんだ。 

俺はミヤギを起こさないようにベッドから降り、 
台所でコップ三杯の水を飲んだ後、 
部屋のすみに落ちていたスケッチブックを手に取り、 
ミヤギが起きていないのを確認すると、そっと開いた。 



255:名も無き被検体774号+:2013/05/08(水) 13:32:11.46 ID:3etpqdGe0
スケッチブックの中には、色んなものが描かれてたな。 

俺の部屋にある電話や壊れたテレビや酒瓶、 
レストランやカフェや駅やスーパーの風景、 
あひるボートや遊園地や噴水や観覧車、 
カブ、ポカリスエットの空き缶、スヌーピー。 
で、俺の寝顔。 

俺はスケッチブックを一枚めくり、 
仕返しにミヤギの寝顔を描きはじめた。 

しょっちゅうミヤギが絵を描くのを横で見ているうちに、 
絵の描き方ってのが大体わかるようになってたんだな。 
俺の頭からはすっかり色んなものが削ぎ落とされてたから、 
「上手く描こう」とか「あの画家のアプローチを真似よう」とか、 
そういうよけいなことは一切考えずに絵に集中できた。 

完成した絵を見て、俺は満足感を覚えると同時に、 
ほんのちょっぴりだけ、違和感を覚えた。 



256:名も無き被検体774号+:2013/05/08(水) 13:37:20.07 ID:3etpqdGe0
その違和感を見逃すのは、簡単だった。 
ちょっと他のことに考えを移せば、 
すぐにでも消えてしまうような、小さな違和感だった。 
でも、俺の頭の中にはあの言葉があったんだ。 
『限界まで、耳を澄ますんですよ』。 

俺は集中力を全開にした。 
全神経を研ぎ澄まして、違和感の正体を探った。 

そしてふと、理解したんだ。 
次の瞬間には、俺は何かに憑りつかれたかのように、 
一心不乱にスケッチブックの上で鉛筆を動かしていた。 

それは一晩中続いた。 



257:名も無き被検体774号+:2013/05/08(水) 13:41:42.21 ID:3etpqdGe0
俺はミヤギを連れて花火を見に行った。 
近所の小学校の校庭が会場の花火大会で、 
それなりに手の込んだ打ち上げ花火が見れた。 
屋台もたくさん出ていて、思ったより本格的だったな。 

俺がミヤギと手を繋いで歩いているのを見ると、 
すれちがう子供たちが「クスノキさんだー」と楽しそうに笑った。 
変人ってのは子供に人気があるんだよ。 

お好み焼きの屋台の列に並んでいると、 
俺のことを噂で聞いたことがあるらしい 
高校生くらいの男たちが近づいてきて、 
「恋人さん、素敵っすね」とからかうように言った。 
「いいだろ? 渡さないぞ」と言って俺はミヤギの肩を抱いた。 

なんか嬉しかったな。たとえ信じてないにせよ、 
「ミヤギがそこにいる」っていう俺のたわごとを、 
皆、楽しんでくれてるみたいだった。 

会場からの帰り道も、俺たちはずっと手を繋いでた。 
それが最後の日になると知っているのは、俺だけだった。 



258:名も無き被検体774号+:2013/05/08(水) 13:46:56.19 ID:3etpqdGe0
日曜になった。ミヤギは二週に一度の休日だった。 
「よう、ひさしぶり」と代理の監視員が言った。 

本来なら、余命はあと三十三日だった。 
明日になれば、ミヤギはまた俺のところにきてくれるはずだった。 

だが俺は、再び、例のビルへ向かったんだ。。 
そう、俺がミヤギと初めて顔を合わせた場所だ。 

そこで俺は、残りの三十日分の寿命を売り払ったんだ。 

査定結果をみて、監視員の男は驚いてたな。 
「あんた、これが分かってて、ここに来たのか?」 

「そうだよ」と俺は言った。「すげえだろ?」 

査定を担当した三十台の女は、困惑した様子で俺に言った。 
「……正直、おすすめしないわ。あなた、残りの三十三日間、 
きちんとした画材やら何やらを用意して描き続けるだけで、 
将来、美術の教科書にちらっと載ることになるのよ?」 



259:名も無き被検体774号+:2013/05/08(水) 13:58:27.95 ID:3etpqdGe0
『世界一通俗的な絵』。 
俺の絵は、後にそう呼ばれ、一大議論を巻き起こしながらも、 
最終的には絶大な評価を得ることになるはずだったらしい。 
もっとも、三十日を売り払った今、それも夢の話だ。 

俺が描いたのは、五歳頃からずっと続けていたあの習慣、 
寝る前にいつも頭に浮かべていた景色たちだった。 
自分でも知らないうちに、俺はずっと積み重ねてきてたんだよ。 
それを表現する方法を教えてくれたのは、他でもないミヤギだった。 

女によると、俺が失われた三十日で描くはずだった絵は、 
『デ・キリコを極限まで甘ったるくしたような絵』だったらしい。 
美術的史なことにはほとんど興味がなかったが、 
一か月分の寿命を売っただけで大金が入ったことは嬉しかったな。 
ミヤギの借金を返しきるには至らなかったが、それでも、 
彼女はあと五年も働けば、晴れて自由の身になるらしかった。 

「三十年より価値のある三十日、か」と監視員の男が笑った。 
でも、そういうもんだよな。 



260:名も無き被検体774号+:2013/05/08(水) 14:04:21.45 ID:3etpqdGe0
残り、三日。最初の朝だった。 
ここからは、監視員の目は一切ない。純粋に俺だけの時間だ。 

ミヤギは今頃、どっかの誰かを監視してるんだろうか。 
そいつがヤケになってミヤギを襲ったりしないことを、俺は祈った。 
ミヤギが順調に働き続け、借金を返し終わった後、 
俺のことを忘れちまうくらいに幸せな毎日を過ごせるよう、俺は祈った。 

三日間を何に費やすかは、最初から決めていた。 
俺はかつてミヤギと一緒にめぐった場所を、今度は一人でめぐった。 

思いつきで、俺はミヤギがいるふりをしてみることにした。 
手を差し出して、「ほら」と言って、空想上のミヤギと手をつないだ。 

周りから見れば、いつも通りの光景だったろうな。 
ああ、またクスノキの馬鹿が架空の恋人と歩いてるよ、みたいな。 

でも、俺にとっては大違いだったんだ。 
俺はそれを自分からやっておきながら、 
まともに立っていられないほどの悲しみに襲われた。 



264:名も無き被検体774号+:2013/05/08(水) 14:13:18.98 ID:3etpqdGe0
噴水の縁に座ってうなだれていると、 
中学生くらいの男女に声をかけられた。 

男の方が俺に無邪気に話しかける。 
「クスノキさん、今日はミヤギさん元気?」 

「ミヤギはさ、もう、いないんだ」と俺は言う。 

女の方が両手を口にあてて驚く。 
「え、どうしたの? 喧嘩でもしたの?」 

「そんな感じだな。お前たちは喧嘩するなよ」 

二人は顔を見合わせ、同時に首をふる。 
「いや、無理じゃないかな。だってさ、 
クスノキさんとミヤギさんですら喧嘩するんでしょ? 
あんなに仲良しの二人でさえそうなるなら、 
俺たちが喧嘩しないわけがないじゃん」 



265:名も無き被検体774号+:2013/05/08(水) 14:16:24.67 ID:3etpqdGe0
気付けば俺はぼろぼろ泣いていたな。 
二人は、そんなみっともない俺をなぐさめてくれた。 

で、驚いたことに、俺の想像している以上に 
俺のことを知ってるやつは多いらしくてさ。 
“またクスノキが新しいことやってるぞ”って感じで、 
徐々に俺の周りには人が集まってきたんだ。 

俺はミヤギとは喧嘩別れしたってことにしといた。 
向こうが俺を見限って、捨てたってことにしたんだよ。 

「ミヤギはクスノキの何が気に入らなかったんだろう?」 
女子大生っぽい眼鏡の子が、怒ったように言う。 
まるで本当にミヤギが存在したかのような口ぶりでさ。 

「こんな良い人をおいて消えるなんて、 
そのミヤギってやつは、本当ろくでもない女だな」 
若いピアスの男はそう言って、俺の背中を叩いてくれた。 

俺は何か言おうとして顔を上げて、 
でもやっぱり言葉につまって、 
――そのとき、背後から声がしたんだな。 

「そうですよ、こんな良い人なのにねえ」って。 



267:名も無き被検体774号+:2013/05/08(水) 14:21:22.32 ID:3etpqdGe0
その声に、俺は聞き覚えがあったんだよ。 
一日や二日で忘れられるもんじゃない。 
俺にその声を忘れさせたかったら、三百年は必要だね。 

声のした方を向く。 
俺は確信していたんだ。 
聞き間違えるはずはなかった。 
でも実際に見るまでは、信じられなかった。 

「そのミヤギって人は、ろくでもない女ですね」 

ミヤギはそう言うと、自分でくすくす笑った。 



269:名も無き被検体774号+:2013/05/08(水) 14:23:30.70 ID:3etpqdGe0
「……すごいですよね、たった三十日で、 
私の人生の大半を買い戻しちゃったんですから」 

隣に座ったミヤギは、俺によりかかりながらそう言った。 

周りの人間はあぜんとした顔でミヤギを見てたね。 
そりゃまあ、実在してるとは思わなかっただろうなあ。 

「あんた、もしかしてミヤギさん?」と一人の男が訊ねて、 
「そうです。ろくでもないミヤギです」と彼女が答えると、 
俺の手を取って「良かったな!」と祝ってくれた。 

だが、当の俺はまだ事情を飲み込めずにいた。 
なんでミヤギがここにいるんだ? 
どうして周りの人の目にミヤギが映ってるんだ? 



270:名も無き被検体774号+:2013/05/08(水) 14:27:00.82 ID:3etpqdGe0
ミヤギは俺の手を握り、説明してくれた。 
「つまり、私もあなたと同じことをしたんですよ」 

俺が寿命を三日だけ残して売った直後、 
あの代理監視員の男が、彼女に連絡したらしい。 
『クスノキとかいう男、自分の寿命をさらに削って、 
お前の借金をほとんど返しちまったぜ』、ってさ。 

それを聞いたミヤギは、すぐに決断したそうだ。 

「三日残して、あとは全部売っちゃいました」とミヤギは言った。 
「おかげで、借金を返しても、まだまだお金があまってます。 
三日間だけじゃ、とっても使い切れないくらい」 



273:名も無き被検体774号+:2013/05/08(水) 14:31:04.58 ID:3etpqdGe0
「さて、クスノキさん」 

ミヤギは俺に微笑みかける。 

「これから三日間、どう過ごしましょう?」 



274:名も無き被検体774号+:2013/05/08(水) 14:33:07.76 ID:3etpqdGe0
多分、その三日間は、 

俺が送るはずだった悲惨な三十年間よりも、 

俺が送るはずだった有意義な三十日間よりも、 

もっともっと、価値のあるものになるんだろう。 



275:名も無き被検体774号+:2013/05/08(水) 14:36:55.44 ID:3etpqdGe0
おしまい。